自然

東京オリンピックの競技予定地が野鳥の宝庫だという理由で競技場の建設への反対運動が起こっているそうな。別に反対運動をすること自体にはなんとも思わないのだけれど、どうもそのやり方に私は納得がいかない。

彼らは「自然の為に」なんていうプラカードを掲げて競技場の建設に反対しているみたいなのだけれど、本当にそれが理由なのだろうか。人は自然の為に自分の休みを削って反対運動をしてあげるほど心の美しい生き物なのかしら。

彼らは本音を隠している。本当は「自然を守ることによって利益を得る自分たちの為に」反対運動をしているんじゃないか?つまり、反対運動をしている人たちは、「自分の為に」っていう最も大事な部分を隠して反対運動をしているわけ。例えばバードウォッチャーだったら、野鳥たちがいなくなったら自分たちがバードウォッチングを楽しめなくなってしまうだろう。写真家だったら、珍しい鳥の写真がとれなくなってしまうかもしれない。近所の人にとっては、木陰で気持ちの良い昼寝ができなくなるかもしれない。それが本音でしょう。それは自然のためじゃなくて自分の為でしょう。

別にその本音自体を責めるつもりは全くない。だけど、本当の理由を隠して反対運動をすることがとても卑怯だと思うわけよ。だって、オリンピックなんていわば趣味の祭典じゃないか。生きていくには全く必要のないくだらない趣味なんだから、自然保護っていうなんとなく立派で人間のためになりそうなことを言われたら分が悪いに決まってるよ。一見立派に見えることに隠れて自分たちの意見を通そうとするなんて卑怯じゃない。

こんなことを言うと、「私は本気で自然を愛しているからこそ保護したいんです。」なんて言って私に噛みついてくる人がいるかもしれない。だけど本当にそうなのかしら。自然を愛してるって言ったって自分に優しい害のない自然が好きなだけでしょ。地震津波を愛しているわけではないでしょ。自然を守るって言ったって結局自分たちに都合の良い自然を守るってことでしょ。自分たちが生活しやすい程度の自然を守るってことでしょ。虫が住みやすい地球を作るために虫の権利を作るわけじゃないでしょ。モグラの為に太陽を破壊してあげる計画でも立ち上げるのかしら。仮にそのような人間がいるとしたら、その人は自然界の人間という生物にとって大きな脅威になるはずよ。自然保護が行き過ぎることによって人間の生活は脅かされるのよ。考えてみたらそんなこと当たり前なのよ。だって人間だって自然界の一部に過ぎないのだもの。人間は自然界の中で他の生物や植物や環境やらいろんなものと戦いながら生きているのよ。自然界のライバルなんかを保護してる余裕なんてほんとはないのよ。そんなことをしていたら人間の縄張りを脅かされるだけなのよ。どうして自然と人を分けて勝手に自然に対して上から目線で接してしまうのかしらね。それは、自然を保護することで自分が気持ちよくなりたいからよ。人間はいいことをすると気持ちよくなる生き物なのよ。気持ちよくなるために人間の立場が脅かされるかもしれないのに自然を保護したがるのよ。馬鹿なのかしら。

とにかく、私が言いたいことは自然保護なんて一見立派に見えるけれど結局は人間の自己満足に過ぎないってことなのよ。自然保護だって数あるくだらない趣味の中の一つに過ぎないって事なのよ。別にそれが悪いって言ってるんじゃないわよ。だけど他の趣味を一段高いところから見下ろして、さも自分たちが特別であるような振る舞いはやめてほしいの。自然を保護して楽しむ趣味もスポーツを楽しむ趣味もどちらも数多くある趣味の中の一つに過ぎないのよ。どちらが上でも下でもないのよ。

だから、オリンピックの建設予定地反対にしても、「自然の為に」じゃなくて「我々の為に」と堂々と主張すればいいのよ。「バードウォッチングがしたい!」「珍しい鳥の写真が撮りたい!」もしくは「自然保護をして気持ちよくなりたい!」ってちゃんと自分の欲望を丸出しにして主張すればいいのよ。そうすればオリンピック対自然保護の、趣味対趣味の正々堂々とした戦いが見られるんじゃないかと思うわ。

今回の件に限らず、対立っていうのは結局欲と欲とのぶつかり合いなのよね。そういった欲に美しくて肌触りの良いカバーをかけて本音が見えないようにしているの。その美しいカバーに釣られて近づいてきた人だって所詮は美しい行動をしている自分に酔って気持ちよくなりたいだけなのよ。私はそんなカバー外して戦えばいいじゃないって思うわけ。人間なんて元々猿なんだから野生丸出しで汚い姿を思いっきり晒せばいいのよ。きちんと野生の自分を受け入れて小細工なしで戦ってほしいわね。自分自身が自然の一部をを受け入れてこその自然保護なのよ。

NHKテキスト 趣味の園芸 2016年 06 月号 [雑誌]

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