おせち料理をありがたがる糞馬鹿野郎どもについて

毎年思うけどおせち料理って本当に無駄だよな。なんで毎年高い金払ってあんなにまずいもん食ってんだろうな。頭わりいよ。

だいたいさおせち料理ってのはご馳走を神様にお供えするみたいなことなんじゃないの?調べてないから知らねえけどさ。もし違ってたら教えて欲しいけど。ご馳走ならばなんだかわからないような何かの木の実をを何かで包んだようなモノいらないだろ。それって大昔におけるご馳走なんだろきっと。かつてはご馳走だったんだろうよ確かに。そんでご馳走ありきで適当な語呂合わせ作ってこれはおめでたいって事にしたんだよ多分。その語呂合わせだけがさ伝統として受け継がれちゃったんだろうな。でもおせちの本質っていうのは「ご馳走」ってところにあるわけだからさ。現代にアップデートしてやらねえと神様も浮かばれねえだろ。本質が置いてけぼりなんだよおせち業界はよ。手間かけてわざわざまずい料理つくって「おいしいね〜」ってギャグかよくだらねえ。ご馳走だったらステーキとか北京ダックがなきゃ嘘だろ。

そんな伝統ならやめちゃった方がいいんじゃないの?別に馬鹿が馬鹿高い金払って馬鹿なもん食ってるだけだからこっちに被害はねえんだけどさ。馬鹿につけこんで高いおせち売り付ける馬鹿は馬鹿の中でも悪質な馬鹿だからよ。まあどうでもいいけどさ。とにかく需要がないところには金は生まれないわけだから馬鹿はそろそろおせちの限界に気づけよって話。



恥の美学

最近、ありのままがブームだよ。

映画や音楽などではしきりにありのままの自分で生きることの素晴らしさが語られ、今やそのままの自分でいることがトレンドになっている。これは由々しき事態だよ。
馬鹿は馬鹿のままだし、クズはクズのままじゃないか。デブはデブのままだし、便所虫は便所虫のままじゃないか。しかもその馬鹿やクズやデブや便所虫は自分が馬鹿やクズやデブや便所虫であることにむしろ誇りを持っている。胸張って便所虫やってる奴があるかよ。気持ちの悪い世界観だよ本当に。

おいらは成長こそ素晴らしいと思ってるから。やっぱり誰かが何かを出来るようになる瞬間って一番美しいと思ってるからね。だからありのままでいいなんて成長を妨げる言葉にしか聞こえないよ。ありのままで良くないからこそ成長したいって思うわけだからさ。

まあでも、本人が成長したくないのならしょうがないよ。だけどそれは恥ずかしいことなんだよ。やっぱり。恥ずかしいことをしてるんだから恥ずかしがらないと嘘だろ。
泥棒やってるくせに堂々としてるみたいな感じだよ。泥棒やってるならせめて申し訳ないっていう気持ちを持てよって話だよ。
これをおいらは恥の美学と呼んでるよ。恥ずかしいことをやってる以上、恥ずかしがってほしいんだよ。だってうんこって恥ずかしいじゃん。ステージの上でうんこするのがかっこいいなんて風潮気持ち悪いだろ?そういうことなんだよ。ありのままでいるのは構わないけど堂々としてんなよ馬鹿面。

超リアル ウンコ 一本糞

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アーティストについて

フェイスブックをやっているとしばしば自称アーティストっていう人間に遭遇するけどだいたいおかしなことになってるよね。

なんだかよくわからない小学校の図工の作品みたいなもん作ってよくわからんポエムと一緒にフェイスブックにアップするみたいな人いるよね。アーティストのグループかなんかに所属して作品売ってるみたいなんだけど買う奴も買う奴だよな。まあボランティア精神で買ってんのかな。知らないけど。創作に対する苦しみをつぶやいたりしてるけどそんなに苦労してそのゴミ作ってどうするのって話だよな。そういうやつって自分の個性主張してるくせに似たようなことしてるやつ腐る程いるよね。悲しい話だけど。

まあでも芸術作品というのは全部そういうもんなのかもしれない。例えばゴッホなんてただベタベタ絵の具塗りたくってるだけじゃない。下手くそだし。みんながそれをいいと思っているだろうっていう共通の認識があるから彼の絵が評価されてるんだよな。ピカソの絵だってはっきり言って俺でも描けるもんな。ピカソは凄いって偉い人が言ってるから評価されてるってだけだよな。作品自体を見ればはっきり言ってゴミだよ。

まあだから自称アーティストの人はどんどんやるべきだよね。やり方はそれでいいのかわからないけど金持ちに気に入られないと今後生きていけないからな。なんとかしてパトロンを見つけるべきだよあいつらは。パトロンを見つけてから山奥に住みなさいよ。

鶴太郎流 墨彩画入門 (角川oneテーマ21)

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片岡鶴太郎 2016カレンダー 壁掛け

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見栄について

見栄を張るっていうのは自分を大きく見せたいってことだろ。大きく見せてもどうせばれるんだからしょうがないだろ。しょうもないことでハードル上がっちゃったらやりにくいだろ。何考えてんだか。なるべくハードル下げて飛んだほうが楽だしいいじゃん。嘘ついてまでハードル高くして結局飛べないって一番恥ずかしいよほんと。それでも飛べなかったことを認めないからね。プライド高いから。しょうもないよね。

そうやって自分のモチベーションを高めるのもありかもしれないけどそれはここ一番のところで使いなよ。本当にしょうもないことで見栄張るでしょあの人たち。
金があるとか友達がいっぱいいるとかいい暮らししてるとかさ。そんなことに見栄張ったってしょうがないじゃん。ばれるよそれ。というかばれてるよ。
恥ずかしくても友達いないって言っちゃえばいいじゃん 本当にいないんだからさ。 それでなんか言ってくるやつがいたらそいつのこと嫌えばいいじゃん。しょうもないんだから。だいたいお前が見栄張ることで騒ぎ立てるやつもしょうもないやつだろ。しょうもないやつ相手にしょうもないやつが何やってんだ。別にしょうもなくても構わないけど余計かっこ悪いことになってることに早く気づいたほうがいいし、自分でしょうもないハードルを上げる無意味さを分かったほうがいいよ。

例えば見栄張ってじぶんのハードル作るだろ。そしたら当然それを飛び越えるためにまた嘘つくわけ。そしたらハードルはまた上がるからまた見え張るわけだろ。それの繰り返しだよ。自分の本当と理想の姿の間の距離がどんどん広がっていくんだよ。それ辛いだろ。精神衛生上よくないよ。その上意味がないしね。そんなの馬鹿とガキのやることだよ。



かっこいい煙草の吸い方①

今日はタバコのかっこいい吸い方を伝授したい。


鉄則その1
片目を瞑って気だるい雰囲気を醸し出して火をつけるべし

タバコを吸う際の一番の見せ場つまりハイライトはいかにかっこよく火を点けるかということ。これがうまく決まるかどうかで周囲の目線も変わってくるはず。

①まずタバコをくわえる。
右手でライターを持つ場合、口のやや右側でタバコの先端をやや右に向けます。上唇をやや前にだしてタバコの先端が下に下がると気だるい雰囲気がより強調されていい感じです。

②火をつける
ライターを取り出します。ライターを取り出す時は胸ポケットやズボンのポケットをまさぐってできるだけあたふたしてください。なるべくどこにしまったっけ感を出すのがクールです。そして良きところで100円ライターを取り出します。ライターごときに金をかけるのはやめましょう。
そしていよいよ火をつけます。頭をやや下げてタバコを火に近づけるイメージ。右手で火をつける場合左目を瞑り、右目を細めて煙りを避けるイメージです。ここで大事なことは火をつけるのは一瞬であること。ライターを探すのに手間取るのはOKですが火をつけるのに手間取るのはアウトです。




ハロウィンについて

ハロウィンは本来子どものものだなどと言って批判してる奴らは日本のたらこと海苔が入ったパスタについてどう思ってるんだろうか。物事が生まれた本場のあり方しか認めないとなったら世の中の様々なものは存在できなくなる。

日本のひらがなだってもともとは中国の漢字から生まれたものだろ。日本にある食や服や建築物、あらゆるものは何かが輸入されて日本風に発展したものだろ。

ハロウィンはハロウィンの本場の形であるべきだとTwitterなんかで言っている奴らがひらがなという本来の漢字のあり方とは全くかけ離れた文字を使っているのだから笑える。くだらない批判なのだ。

日本風のハロウィンが嫌いなら嫌いでいいけど頭の悪い批判はやめたほうがいいと思う。ハロウィンで騒いでいる馬鹿どもと変わらないよ。

リスペクト Featuring RAPPAGARIYA

リスペクト Featuring RAPPAGARIYA


科学について

例えば科学で何かが証明されたとする。それは素晴らしい発見だけどそれを盲信するやつの態度は全然科学的じゃないと思う。


煙草を吸う私に対して煙草は体に悪いという人間がいるとする。体に悪いということはどうやらいろんな実験で証明されたらしい。マウスにニコチンを与えると死ぬとかなんとからしい。

当然私は反論する。煙草を吸ってから体調がいいし、風邪の時に吸うと風邪が治るという実感もある。ヘビースモーカーだった祖父は95歳まで生きた。煙草は健康に良いのだ。

しかし、彼は言う。それはありえない。科学で証明された事実なんだ。煙草=体に悪いは事実なんだと言うのだ。

ちょっと待ってくれ。科学は何かを疑うことから始まるんじゃないのか。
確かに煙草が体に悪いということはあらゆるデータが物語っているのかもしれない。

しかし、科学の本質は疑い続けることにあるのだ。ある実験の結果だけを盲信して他のデータに対して「ありえない」というやつの態度は実験の精神に反している。

科学を愛するのであれば科学の精神を忘れてはならない。